つぶやきまとめもろもろ

だいたい2次元アイドルに悶々としている

アラサー女が「アイドリッシュセブン」のライブに行ってきた話

一週間たっても全然気持ちの整理とか部屋の整理とか冷蔵庫の整理とかぜんぜん何も進まないので、ここにちょっと書かせていただきます 

この一週間このライブを発端にして方々にご迷惑おかけしまくりだったので、一区切りをつける意味でブログを書きます。友人各位本当に申し訳ございませんでした…。

非実在アイドルが「実在」した

7/7,8(土,日)に西武メットライフドームで開催されたアイドリッシュセブン1stライブに行ってきました。

ほかの方もさんざん言っているので、今更私が言うべくもないのですが、もう一言で言うのならアイドリッシュセブンがそこにいた。TRIGGER実在した。Re:Valeは現実。に集約される。ほんと。これほんとに。

初っ端の「MONSTER GENERATION」の演出があまりにも原作に忠実で完璧。メインビジョンに映し出されるキャストの動きと映像が完全に一致していて、ここは二次元なんだか三次元なんだかもうそこからわからないくらい。

いやね、大変大変失礼な話なんだけど、ライブが発表される前、「ライブが発表されても中の人が歌うだけだしな」と思ってあまり行く気がなかったんですよ。今だから言えるけど。二次元と三次元が明確に線引きされていてるし、彼らは「アイドリッシュセブン」そのものじゃない、って思ってて、中の人のtwitterとかも流し見程度で。(ほんとにごめんなさい)

なのに、そんな私がライブ終わったらキャストさんのtwitterに張り付いてインスタみてる。うそでしょ??この人たち別にアイドリッシュセブンじゃなくない????っておもうんだけど、それくらいシンクロ率っていうものがすごかった。

私の推しが二階堂大和という男なので例にあげるんですが、いやもうステージ上の一挙手一投足が二階堂大和なんだよ

控えめに後ろからついていってメンバーを見守ったりとか、締めるときは締める言葉を言ったり、センターの無茶苦茶な言葉で惑わされたり、メイン曲でマイク通さないで「おやすみ」って囁いてみたりもうすごい二階堂大和。非実在アイドル二階堂大和をこの目で見た。なにいってんだオメ―っておもうじゃん、二次元アイドルで実在しないはずじゃん、違うんだよ実在するんだよ… twitterで同じこと思っている人がいたのでめちゃくちゃわかるって思いながらtweetみてました。

 

この感覚ライブ観た人はわかると思うんですが、一応自分なりにこの「実在」について解釈すると、

・キャストが独自にキャラ解釈を行ってセリフのみならずそれに合った動き・表情を演じている

・全体を通して「ステージに立っているのはアイドリッシュセブン(もしくはTRIGGER、ReVale)」という意識がかなり強くあり、それを後押しする演出が各所にちりばめられている

・楽曲とストーリー、キャラクターの必然性と紐づけがあり、PVの演出を用いることでその場面を想起、関連付けさせやすい。

   →結果:アイドリッシュセブンは実在した

あんまり関係ないかもしれないけど、個人的にはこういう理論なんじゃろかって思ったりした。

記憶の過程 | 認知心理学

私たちの認知の上ではアイドリッシュセブンが完全に「再生」されたわけです。「ライブで」「キャラクターが歌い」「見たことがある演出が目の前に広がった」→「実在」(という認知に至った)(門外漢なので大まかな話ですけど)

とにかくこの「実在感」が完全に次元を歪めてきたライブで、約4時間のライブでめちゃくちゃいろんなところを殴られた感じがしました。キャストさんが雑誌のインタビューで「神は細部に宿ると言われているので声を当てさせてもらっていることを(ライブで)意識してやりたい」って言ってて、読み返してみてそういうことかよ…と。

言葉通りにシンクロ率がものすごかったよソーマサイト―…バクステからセンター花道通ってメインステ行くときのあの衣装の翻し方とか歩き方とか完璧すぎて「九条天いる…」って言ってたもの…

ここでこの話するとめちゃくちゃ長くなるのでこの辺にしときますけど、ほんっとものすごい勢いで泣いた二日間だった。同時に「アイドリッシュセブン」というコンテンツの凄まじさを思い知った2日間でもありました。

そこから、1週間。ロスっていう感覚がわからなかったんだけど、7日目の朝を迎えてようやく「ああ、あのライブって終わったんだ」って急に実感した。(池袋の「LIGHT FUTURE」突発的に見に行ったのもあったかもしれない)(あれはもしかしたら、余韻に浸る我々を先に導くための切り替えのサインだったのかもしれない)

求められているものに応える、求められるもの以上を提供する/それでも変わらないこと

実在感につながるのはキャストさんの力があってのことだった。声優っていま、いろんなことを求められていて、ちょっと前では誰も声優になったあとにアイドルみたいなライブをやるなんて思っていなかったんじゃないかと思う。すこし「それっぽい」ことをする、というくらい。

だけど年々、そのリアリティは上がってきているし、コンテンツによっては「中の人」そのものを波及で推すこともある。

声優さんって(広義的に)専門職だと思っていて、彼らに求められる「専門性」ってのはつまり声のお仕事なんだけれども、その「専門性」がどんどん拡大してきている。俳優やアイドル、そういった要素を含むことも非常に重要な要素になってきている。時代の流れがある以上、求められるものに応えるのはお仕事として当然になるし、相手が「人」である以上は、期待以上を提供しなければ、の負い目もある。

アイドリッシュセブンの声優陣はだいたい平均年齢30代がメイン。会社で言うなら中堅どころで、「求められるものに応えるのは当たり前、創造性をもって、顧客ニーズを常に先読みして、業界全体の発展に尽力する」というところを求められる年代でもある。次世代、といってもいいんじゃないかと思う。

それを担う彼らが、ああいったパフォーマンスを見せることでこれからの「声優」という仕事の専門性が少しずつ変わるように思うけど、「キャラクターを大事にする、演じる」という基本的な部分は専門性失ってはいけない。作品で動く以上「個人」が突出することなく「キャラクター」の印象を残すっていう矛盾を孕んだことをあのステージでは見せつけられた。

業界のことをよく知らない私ですら、この人たちはいま、「仕事」を完璧にこなしているんだ、と思ってそれもそれで胸が熱くなった。そしてああ、本当に時代の変遷期なんだな、って。あれがスタンダードになってくるのはもしかしたら先かもしれないけど、どんどんその垣根も境界も薄くなってくる。声優の専門性、求められるものが変わっていくことへの挑戦が、詰め込まれていた。

それと同時にコンテンツやゲームの意義もちょっとずつ変わってきてるのかなって思ったりもした。メディアミックスは当たり前、主流はスマフォゲーム。据え置きゲームのタイトルが少しずつ少なくなっていく、というのはゲーム原作だけで与えられる情報量はそう多くない、であればメディアミックスは必然になってくる。そういうのをきちんと理解したコンテンツの内容だったり、現実のリンクの仕方をしてくれる。

もちろん、コンテンツである以上お金は動いている。そんなの重々わかっている。だけど、ゲームである以上、娯楽である以上、「楽しんでいってほしい」「自分たちはこんなに楽しいものを作っている」という作り手の意図が感じられるかどうか、というのはお金を払ううえですごく重要なことだと思っている。
作り手が楽しんで作っているものは、見ていてやっぱり楽しい。ここをこうしよう、ここをこうしてみよう、っていうのはきっと私たちのためもあるんだろうけど、大半は作り手が楽しいから、こうしてみたらきっと楽しいなあ、があるから応援できるのだと思う。

とどのつまり、こういうことって「好き」とか「こうしたい」がなければ変化しないことで。理想があって、課題があって、それをどうするか?って制作陣もキャストもみんな一丸となって考えた結果が反映されてる。シンプルだけど、みんながみんな同じ方向を向いてなければ「アイドリッシュセブン」の実在感にはつながってなかったんじゃないか、と思うわけです。

「好きなものを好きと言って」 -アラサー女がアイドリッシュセブンのライブに行ったそのあと

2日目のセトリで流れたMEZZO"の「Dear Butterfly」。MEZZO”のターニングポイントで使われる曲が流れた瞬間が、一番泣いていたと思う。そのとき思っていたこととか、全部全部見透かされたような気がして、だばーーーっと泣いていた。(特にMEZZO"がとりわけ好きというわけでもない)

 

youtu.be

この曲歌詞に「好きなものを好きと言って」という一節がある。

アイナナをやり始めたのはほんとに単純な話で、キャラデザをやっていた種村有菜先生が好きだったから。リリース当日からDLしてやりはじめて、なんとなくやっていて、好きな曲ができて、ちょっとだけ課金もして、いつのまにかプレイリストはアイナナの曲でいっぱいになっていった。ストーリーはいつも順風満帆とは言わなかったけど、彼らと一緒にその軌跡を見てきた

何の変哲もない、どこにでもいるオタクの軽率なハマり方だと思います。仕事もプライベートもぱっとしないアラサー女は、アイドリッシュセブンというコンテンツのおかげでなんとか生き永らえてこれました

もともとオタクではあるのだけど、周囲にそれを公表してなくて、とにかく好きなことをひたすら隠し続けて生きてきた好きなのに知らないよ、って言ったり、変に斜に構えてそんなに好きじゃない、なんて風に言ってみたり。

アラサーってこれまで一緒にわーきゃー好きなものを共有してきた友達が突然、「結婚するわ」とか「仕事頑張る、転職する」とか、いろんな道を見つけて、自分の人生を歩いていく時期で、実際私の周りってそうやって自分の道を決めて生きてる友達が多かった。

それで私はというと、仕事も中途半端、恋愛も中途半端、趣味であるオタ活動も中途半端で、好きなものすらろくに好きともいえない。迷っているし、自分が何をしたいのか、何をして生きていたいのか全然わからない。アイナナも好きだけど、「世間の目」とか「周りの評価」とかそういうしがらみに勝手にとらわれて「別に好きじゃないよ」って流して。表面上はそういってもやっぱり自分の中で好きっていう気持ちはたくさんあって。それを表に出すことが怖くて。

「自分よりもこのコンテンツを好きな人はたくさんいる」

「自分はあんな風に好きなものに従順になれない」

「将来のことを考えるとそれだけの生活にはなれない」

そんな風に自分がこのコンテンツを好きという気持ちに自信が持てなくて、中途半端なままライブに参加してみたら、そこは好きという気持ちだけで構成された空間で。

瞬間的におもいました。

「わたし、もしかしてアイドリッシュセブンを好きでいて、好きって言ってもいいんだな?」…と。

ずっと好きなものに嘘をついてきて、見ないようにしていました。リアルでやらなきゃいけないことを放っておいて「二次元」「コンテンツ」に逃避する自分を見たくなくて、ずっと「好き」を誤魔化して生きてきた。そうやって30年生きてきて、これからもこのジレンマを抱えて生きるんだろうなとおもっていた。

だけど、あの場ではっきりとわかった。

私はアイドリッシュセブンが、そこにかかわるすべての人たちが大好きだ。

そこで出会った数々の出会いがとても大事で大切にしていきたいものだ。

好きなのだ。その気持ちは大事にしなきゃいけない。

ライブという大きな舞台で、誰もが笑っていた。泣いていた。「3年間待ってよかった」「課金してよかった」「こんな舞台に連れてきてくれてありがとう」「未来に進んでいきます」…そんな言葉を耳にしてもひねくれものの私はまたそんなお決まりの言葉だなって流していたはずだった。流せるとおもっていた。

でも違った。

「大切にしたいものって当たり前でかけがえのない形をしてる」。大事な言葉とか突き詰めるとシンプルになってしまって、すごく陳腐になる。どこかで誰かが言ったような言葉だけど、その言葉の意味とか、想いとか、これまでのことを振り返りながら十分すぎるくらい味わってしまって、ただ泣くしかできなかった。恥ずかしながら、好きなものに嘘をつくことがどれくらいかっこ悪いことだったのか、ようやくわかった気がした。

 

 

ライブ前に占い師に言われた。

「あなたはもう少し素直に生きた方がいいよ」と。

……いやまさかこんな形で実感することになるとは思わなかったけどな……

自分の好きなことに自信をもってやることとか、人に好きだと伝えていくことって本当に大事だし、そうやって生きている人がうらやましいし、そういう人を見ていると自分も元気が出る。

私もそういう風になれるかな、まだ遅くないかな。同年代の人たちがあんな風に「好き」でそれまでの業界を変えていっているのを目の当たりにして、すごく衝撃だった。好きに素直になることが何よりも大事、ってアラサーにもなってその事実に気付けなかった自分がかなり恥ずかしいし、それでずっと損していたこともあったけど、少しずつでいいから自分もそうなれるようになりたい。人生って、そうやって自分で幸せを積み重ねていくものだろう

 

Dear Butterfly の「好きなものを好きと言って」の続きはこうある。

「その瞬間零れてく笑顔を幸せと呼ぼうよ」

きっと、あの空間は「好きなものを好き」と言えたからこそ見えた「幸せ」だった。